見習いインフォマティシャンのノート裏

メタボロミクスに関わるバイオインフォやケモインフォの研究が生業。

ゲノム編集から、ゲノムを書く時代

2020年のノーベル化学賞は、ゲノム編集CRISPR-Cas9の技術を確立したジェニファー・ダウドナと、エマニュエル・シャルパンティエの両氏に授与される。

 

ゲノムを編集するモチベーションは、何と言っても生命の設計図はゲノムDNAにあり、ゲノムDNAを意のままに編集することで設計図通りに意図した性質を生み出せることにある。

例えば、ガンの原因が設計図にあるとすれば、ゲノム編集で治療できる未来がくるかもしれない。こういった医療分野は『レッド・バイオテクノロジー』と呼ばれている。この分野の課題でいくと、世界保健機関(WHO)によると希少疾患の80%近くが遺伝性疾患とされている。つまり、そういった遺伝子疾患についての原因が、ゲノムにあるとすれば、その治療手段としてゲノム編集が有望になることは容易に想像できる。

また、医薬品開発における合成生物学への貢献も期待される。実際に、抗マラリア治療薬アルテミシニンの発酵生産で有名なAmyris社、麻薬性鎮痛薬の発酵生産で有名なAntheia社などが社会実装に向けて活動している。

 

他にも、『グリーンバイオテクノロジー』と呼ばれる領域もある。農業分野の研究で、農産物に昆虫や菌類への耐性を付与したり、除草剤に対する耐性を付与することを狙いとしている。従来は偶々そういった植物を獲得するように交配を繰り返すアプローチがとられていた。ただ、それでは非常に膨大な時間を要することから、より短時間で望み通りの性質を得るための工夫を行っていくことが必要となる。その一つがゲノム編集となりうる。

また、実際に家畜飼料の消化性や栄養吸収性の向上を目指した技術開発を行っているAgrivida社や、砂糖の生産性向上や害虫予防を目的とした植物改変の技術開発を行っているPlant Sensory Systems社などが、合成生物学の社会実装に向けた活動を進めている。

 

ここまでの2つの分野はヒトの口に入ることから、その議論はより慎重に行っていかなければならない分野である。ただ、バイオテクノロジーが貢献できるのはこれらの分野だけではない。

バイオ燃料やバイオ化成品に関わる『ホワイトバイオテクノロジー』がある。従来は石油から作られてきたような燃料・化成品を、バイオの力で合成しようという分野である。石油資源の限度であったり、二酸化炭素を植物で再び固定化して石油にするためには膨大な時間を要することなどに応える技術として、着目されている。

実際に、Lanza Tech社はメタノール二酸化炭素からのバイオ燃料発酵生産の社会実装を目指している。他にも、Lygos社はマロン酸、Green Biologics社はブタノール、Green phenol開発株式会社はフェノールといった化学品生産が行われている。

 

 

では、ゲノム編集がこういった分野で「必要」とはされても、「十分」であるかというと、否である。なぜなら、局所的な改変はできるが、それは従来の遺伝子工学ツールでもできたことではある。しかし、大規模に遺伝暗号を改変することを目指す場合にはゲノム編集では到底対応しきれないであろう。

例えば、Antheia社が取り組んでいる麻酔薬は、本来は植物の中の多段階の代謝反応で合成されるが、それをより生産速度の速い微生物で実現することを目指す場合には、その多段階の反応を触媒する酵素を導入する必要がある。ゲノム編集では到底、処理しきれないわけである。

 

ゲノム編集の次の時代として、ゲノムを書く時代が来る。

ゲノムとは、そもそもアデニン、チミン、グアニン、シトシンの4種の塩基の組み合わせ表現されるので、それらを人工的に組み合わせてやればゲノムを書くことができる。

 

2010年には、人工マイコプラズマの合成

Creation of a bacterial cell controlled by a chemically synthesized genome

 

2013年には、人工ゲノム大腸菌の合成

Genomically Recoded Organisms Expand Biological Functions | Science

 

2014年には、酵母の16本の染色体のうち1本を人工的に合成して、機能発現に成功している。

Total synthesis of a functional designer eukaryotic chromosome

そのほかの染色体についても、2017年には5本の染色を人工的に合成している。

Design of a synthetic yeast genome

さらに、将来的な遺伝子の欠損や置換を志向した形での酵母の人工ゲノム合成が続けられている。

Building better yeast

 

細菌ゲノム(1,000,000塩基)、大腸菌ゲノム(5,000,000塩基)、そして酵母ゲノム(10,000,000塩基)と徐々に大きなゲノムをもつ生物の合成が進んでいる。

 

こういった研究のモチベーションの一つには、「生命とは何か」という根源的な命題に答えることにあるだろう。つまり、人工ゲノムから遺伝子を極力そぎ落とすことで、生命に必須の因子を調べることが期待される。

例えば、人工マイコプラズマについては、クレイグベンター研究所が当初作った人工ゲノムJCVI-Syn1.0では約1,080,000塩基からなっているが、そこから生命維持に必須でない遺伝子を減らすことで、JCVI-Syn3.0と呼ばれる530,000塩基からなる人工ゲノムを報告している。

Design and synthesis of a minimal bacterial genome

では、この最小ゲノムを利用して「生命とは何か」に答えられたかというと、まだ不完全な状況である。このゲノムには、473遺伝子が含まれているが、そのうち20%弱の149遺伝子については機能が不明なままなのである。

そのため、今後の研究では形質と遺伝子の関係を、実験結果とインフォマティクスを組み合わせて明らかにされていくことが期待される。